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ダンディー (スコットランド) : ミニ英和和英辞書
ダンディー (スコットランド)[らん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)

ダンディー (スコットランド) : ウィキペディア日本語版
ダンディー (スコットランド)[らん]

ダンディー(、、、発音)は、正式名をダンディー・シティ (Dundee City)と呼ぶスコットランドで4番目の都市で、スコットランドに32ある地方行政区画である「カウンシル・エリア」の1つである。北海に面するテイ湾の北岸に位置する。
ダンディーには、中石器時代から人が継続的に居住してきた痕跡がある。中世自由都市として発展し、19世紀に主にジュート産業によって急速に発展した。このことと、他のダンディーの主要産業から、ダンディーの通り名である「ジャム・ジュート・ジャーナリズム」(jam, jute and journalism) が生まれた。
2006年半ばで、ダンディーの人口は141,930人、都市圏人口は159,522人と見積もられている。1971年の国勢調査の時点で、ダンディーの人口は182,204人の最高に達しているが、その後の転出により減少している。
こんにち、ダンディーは「発見の町」(City of Discovery) というキャッチフレーズで宣伝している。これは、ダンディーの科学活動の歴史と、ロバート・スコット南極探検に使われた調査船ディスカバリー号 (RRS Discovery) がダンディーで建造され、今も市の港で保存されていることを記念するものである。生物医学産業や技術産業は1980年代から発展し始め、現在ではイギリスにおけるデジタルエンターテイメント産業の10%を占めるに至っている。ダンディーには、ダンディー大学 (University of Dundee)、アバーテイ・ダンディー大学 (University of Abertay Dundee) の2つの大学がある。
== 歴史 ==
ダンディーという地名は2つの要素で構成されている。最初の要素は要塞を意味するケルトの地名である''dùn''であり、2番目の要素はスコットランド・ゲール語において「火」を意味する''dèagh''か、あるいは''Tay''から来ているとされる〔
〕。
現代のダンディーの周辺地域には、中石器時代から継続的に人が住んでいた。鉄器時代から中世初期までは、ロー・ヒル (Low Hill) の要塞から管理されている領主直轄地 (Demesne) となっていた〔。
ダンディー伯爵領は、スコットランド王ウィリアム1世の特許状によって、彼の弟で後にハンティンドン伯爵となったデービッド (David of Scotland, Earl of Huntingdon) に対して12世紀末に与えられた。町の当時の状況とデービッドの町を貿易拠点として発展させる政策により、町は繁栄と成長の時代を迎えることになった。伯爵領はデービッドの子孫に受け継がれ、その中でもジョン・ベイリャルの時代、彼がスコットランド王に戴冠した1292年に勅許自治都市 (Royal burgh) となった〔。ダンディーの自由都市としての地位は、第一次スコットランド独立戦争の際に一旦剥奪されたが、ロバート1世の1327年の特許状によって再度与えられた〔。
ダンディーの町は、1544年から1551年にかけての「手荒な結婚申し入れ」(The Rough Wooing、スコットランドのメアリー1世を、イングランドのヘンリー8世の息子エドワードと結婚させることでスコットランド王位を手に入れようとした事件)の際には酷い破壊を受けた。三王国戦争の最中の1645年にも、国王派のモントローズ侯爵ジェイムズ・グラハムによって包囲を受けている。最終的に町はアルベマール公ジョージ・マンクGeorge Monck, 1st Duke of Albemarle)に率いられた議会軍によって1651年に破壊された〔。
初代ダンディー子爵ジョン・グラハム (John Graham, 1st Viscount of Dundee) は、ダンディー・ローの丘の上にステュアート朝の旗を1689年に掲げ、「ボニー・ダンディー」(Bonnie Dundee) と称されるようになった。これにより町はジャコバイト運動の初期の拠点となった。
ダンディーは産業革命の時期になると、大英帝国内での貿易の発展とリネンや後にはジュートの産業の発展により、急速に成長していった。19世紀末には、ダンディーに住む労働者の大半はジュートの工場かその関連産業で働くようになっていた。ダンディーは大きな湾に面しているため、インド亜大陸からのジュートの輸入が容易であり、またジュートの処理に必要な鯨油を得るための捕鯨産業も発達することができた。20世紀に入ると、インドで布を織ったほうが安くなったことから産業は衰退し始めた。ダンディーの最後のジュート工場は1970年代に閉鎖となった。
ダンディーは、他の小さな産業でも知られている。特に、「キーラーのマーマレード」(Keiller's marmalade) の生産や、1905年に設立されて健康・娯楽産業に次ぐ大きな雇用であり続けている出版社のD.C.トムソン社 (D. C. Thomson & Co.) が知られている。ダンディーは、「3つのJ」、つまりジュート・ジャム・ジャーナリズムで成り立っていると言われる。
ダンディーの海運・造船産業もまたかつては大きな経済の柱であった。その最盛期には年間200隻の船が建造されており、ロバート・スコットの南極探検に用いた調査船ディスカバリー号もここで建造された。ディスカバリー号は現在、町のディスカバリー・ポイントで公開されている。また重要な捕鯨産業が、主にジュート工場に鯨油を供給するためにダンディーを拠点としてきた。捕鯨は1912年に、造船は1981年に終了した。
ダンディーは、イギリスの鉄道史上最悪とされる、テイ橋事故が起きた場所でもある。初代のテイ橋は1879年に開通した。橋は1年と経たずに嵐の日に旅客列車が通行中に崩壊し、75人が死亡した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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